死にぞこないの唄

一度死にかけて帰ってきました。

CBM その10

ブレ様自伝翻訳いきます! 明らかな誤訳・解釈間違いありましたら、ご指摘のほうよろしくお願いします!

 

 勿論、もっと気楽な時もあった。父は穏やかで寛大で優しく面白く、素晴らしく反物質主義で、八十年代の押しつぶされそうな野心的な空気からは影響を受けておらず、彼の段ボールと絵でできた小さな王国で満足していた。驚くほど現実的で、のこぎりとドリルと接着剤とハンマーと修理を完璧に手入れされた工具の一揃えでいつもやっていた。彼が作ったのは家具と棚と母の絵を飾る額縁と、彼のためのスピーカーの棚さえもだった。あるイースターの休日の時、僕とブロンディーに語ったのは、彼がせっせと作っているのは彼の工具のための棚だったということだ。僕らは困惑したのは、イースターまでに鶏舎用の金網が必要だったことだ。イースターに僕らは庭に導かれ、美しい白い兎をそれぞれプレゼントされた。父は兎小屋をずっと作っていたのだった。

 その兎は僕たちの小さな世界の薄気味悪い存在となった。毎朝僕らはうちの近くのゴミの山を後ろに荒地へととぼとぼと歩き、タンポポを摘み、青葉を選んだ。母がよくそれで美味しそうな匂いの、温かい、すりつぶされたあらびき粉のような、オート麦とジャガイモの皮からできたものを作ってくれた。ブロンディーは、目的は不明だが、それをラビットクラブとさえ呼び始めた。会員のただ一つのルールは、メンバー間(二人だけ、彼女と僕)の認識を表しとして、お互いの鼻を捻ることだったように思える。僕のことをよく知る誰もが知るのは、それが僕にとって断ち切りがたい習慣だということだ。

 

ブレ様が玉ねぎがごちそうだったと言っていて、冗談かと思っていたらあながちウソでもなさそうですね。

CBM その9

ブレ様翻訳行きます! 明らかな誤訳、解釈間違いありましたらご指摘のほどよろしくお願いします!

 

  僕はスコットランドの伝統からは距離を取らなければならない。明らかに、苗字のせいであるのと、祖父が王立スコットランドフュージリア連隊のマーチングバンドでバグパイプと太鼓を演奏していたからであるのだ。彼はよそよそしく、堅苦しい見た目の、古めかしいタイプの男性で、マカッサル油で撫でつけたべたべたした髪と酔ってやつれた顔をしていた。その人物が二回死んだことを後に皆が詳しく知ることになる、数少ない奇妙な一人だった。許しがたい暴力と酩酊して起こした事件の連続の後、彼の結婚生活は破たんした。そして古い軍人の友や安宿で眠る生活になった。真実は不明だが、ホームレスで酷いアルコール漬けの生活に陥った。だから、九十年代のいつか、長い仲たがいの終わりに、公園のベンチで幾晩かすごした後、彼が死んだことを聞かされた時、誰も驚かなかった。その知らせを父は奇妙な無関心さで受け止めたように見えた。けれども、少なくとも10年後、父はある施設から彼の父の葬儀の費用を幾らか払ってくれないかという電話を受けるのだった。実際祖父が、さまよいながら飲みながらどこまでも急降下しながらも、ずっと生きていたことが知れ渡ったのだ。父は、彼が家庭を恐怖で支配したことを決して許すことができなかったし、そんな苦い憎しみを彼に抱きながら、ショックを受けていたが、費用を支払うことを拒否した。

 父は身体的に僕を傷つけなかったけれども、父が抱く怒りは恐ろしいものだったし、そしてそれは引き継がれるノイローゼとして僕に受け継がれているのだろう。父がとても支配的で、いつも部屋を出て行く時はどこに行くか彼に告げることを求めた。今になっても、僕は小便をしに行く時は妻に言わなければいけない。それはまるでショーシャンクの空にモーガンフリーマンの役が見つけた仕事がスーパーマーケットでの袋詰めだったようなものだ。またある時には非常に対決的で、政治と音楽について常軌を逸したり非現実的な意見を言った。僕がようやく思春期にさしかかったころ、彼に反抗し始めた。僕たちはずっとぶつかり合い、ポップミュージックとクラッシックの優劣についての苦い議論では何度も続いた。クリスマスの後のクリスマスも緊張に終わり言い争いに満ちた。紙の帽子をかぶって憂鬱にテーブルにつく一方、父は熱心だが要領を得ない様子で僕にチャイコフスキーの「悲壮」は、ローリングストーンズの「サティスファクション」より素晴らしいと証明しようとするのだった。その経験は音楽についてとても頑固にしたし、きっと僕を生涯にわたって素晴らしく自分について喋りすぎるようにしたのだろう。

 

ブレ様のおじい様のことも語られていますね。ブレ様のお父様は本当に苦労なさったし、ブレ様も苦労なさったんですね。

CBM その8

ブレ様翻訳自伝いきます! 明らかな誤訳、解釈間違いありましたら、是非お教えください!

 

 

 彼が生まれたのは軍人の家で、ベンツウッドという陰鬱なヘイワーズヒースの共同住宅で育てられた。全く同じ狭い1930の家の一つで、アルコール中毒と暴力と失敗に満ち、古いシェリー酒とドッグフードの臭いと小さな暖房機の冬のこもった空気があった。祖父母の家は軍事品の収集物でごちゃごちゃとしていた。クックリ刀や薬莢の装飾品、父が2・3歳の頃まで住んでいたインドのガラクタで。彼の母親はひ弱で、頬骨の高い、鳥のような女性で、非常におどおどとしていた。彼女の夫、父の父親は、口汚い大酒のみの兵士で、カーン(パキスタンのスカッシュ選手)と大きな黒いラブラドールの他には殆ど興味がなく、しまいには自分の息子を家から放り出してしまうのだった。それは最終的にピーターが彼に立ち向かい、祖父が支配していた小石打ち込み仕上げの領地の酩酊した不快な残酷さの嵐に役に立たなかったからだ。この躾が父に残した遺産は、僕への絶対的な肉体の平和主義だった。けれど、彼のもっと暗い瞬間は、ラーキンの陰鬱な家族に伝わる予言が、知らぬ間に現れる時だった。人形のような僕らの家で起こるじめじめとした閉所恐怖症は、父の不安定な気分によって平行して現れた。魅力的なくちゃくちゃの変人は、くよくよしたいじめっ子にとって替わられ、天候は緊張と脅しでいっぱいだった。彼は、ただ単に自分の内なる亡霊を制御し表現する道具を与えられなかった世代だった。父の憂鬱な気質は少しずつ彼を蝕み、最終的に彼を殺した。致命的な出来事の連続が彼を孤立と憂鬱と損失へと導いた。

 

またちょっとした訳せんかった! でも、ちょっとずつでも頑張る!

CBM その7

ブレ様自伝翻訳行きます! 明らかな誤訳、解釈間違いありましたらお教えください!

 

 

 父の庇護のもと暮らすというのは、一見意味のないルールの荒野の中をゆっくり進んでいくことを含んでいた。彼が顰め面で言ったのは、彼の唯一の贅沢は「少しの煙草とレディオ・タイムス(ラジオやテレビ番組を載せた雑誌)」だ、と。よくそれらをゴラムのように握りしめて注意深く守っていた。それを特別なタータンチェックの入れ物から出した者、また、バイロウ社のボールペンで丸を付けながら、番組を楽しむ予定を立てることを遅らせた者、父が足を置き、絶えず存在するブライアの根で作ったパイプで絶え間なくぜいぜいといいながら煙をくゆらせていた、その枝編み細工の椅子の下に安置されている場所から逆に持ち出した者にでさえ、災いがふりかかった。他にも決まりがあった。プラムを食べるのにきちんとした時間があること、紐を結ぶ「正しい」やり方。その考えはすっかり解らなかったが、その時はケチでせせこましく思え、それはいつも、彼が動いていく自分の世界の欠片を抑えようと必死になっている気持ちを裏切るのだった。

 

すいません、今日もちょっとしか訳せなかったです!

CBM その6

ブレ様自伝翻訳いきます! 明らか誤訳。解釈間違いありましたらお教えください!

 

 白黒の六十年代をサイドカーを付けたBSAのオートバイでヘイワーズヒースを巡航し、母はサイドカーの中で不安げに縮こまって腰かけ、髪型がダメにならないかと心配していた。家族が増えたので、彼が手に入れたのは、オートバイの免許で運転できるリライアント・ロビンの三輪車と当時のシンクレアC5だった。もろいファイバーグラスでできたつばが車輪を覆い、名ばかりの防護と少しの威厳を与えていた。僕が生まれた頃には、僕らをみずぼらしいレーシング・グリーンのモリス・トラベラーに乗せていた。それはとても古くて、九月には腐った木製のサイド・フレームから小さなキノコが生えていた。僕と姉はぽつんと後部座席で、シートベルトなしで、ABBAの歌を歌っていた。高速道路をどんなスピードで運転しても心配になるほど車は揺れた。良く見れば車の床に小さな裂け目が走っているのが見えただろう。信じられないことに、父は2・3年に一回、リストの生誕地への巡礼の途中、オーストリアを奇襲するために運転していたことだ。地面から小さな土のサンプルを取り、それを小瓶に入れ首に身に着けていた。

 

 

すんません。今日疲れてるんでほんのちょこっとだけです!

CBM その5

ブレ様自伝翻訳いきます! 明らかな誤訳・解釈間違いありましたらご指摘よろしくお願いします!

 

色んな意味で、僕の子供時代の躾は異常なまでに正常だった。けれど、同時に奇妙なほどに型はずれで、僕らは絶対に上手く行かないようだと感じた。表向き僕らは優雅なサセックスに住んでいたけれど、僕来の家は観光客が決して訪れないところにあった。町はずれのみすぼらしい場所にあり、少女趣味的な世界の本通りからは遠く離れた所に潜んでいた。僕らは貧乏で、粗悪な共同住宅の赤貧の中に存在していた。でも両親が家をいっぱいにしていたのは、上流中産階級のハムステッドのインテリの生活に近かった。母の絵はそこらじゅうにあり、彼女はそのささやかなキャリア全てをサセックスの田舎で穏やかに過ごすことに捧げた。壁いっぱいに彼女の美しい水彩風景画が飾られていて、自然の成果を複雑に観察していた。彼女の作品がない所には、ヘンドリック・アーフェルカンプと、フィンセント・ファン・ゴッホとオーブリー・ビアズリーの絵がかけられていた。全ての場所を力強い色彩で飾っていた。ミッドナイト・ブルーウィリアム・モリスの壁紙、彼女が造った豊かなベルベットのカーテン。そして勿論、いたる所で耳をつんざくような父のクラッシク音楽が迸っていた。ワーグナーベルリオーズエルガーショパン、そして避けられようもなくどこにでもリストがいた。僕の音楽教育はこの荒れ狂うるつぼで作られたに違いないだろう。ニーベルングの指輪、ハンガリー狂詩曲で鍛えられ、暗く憂鬱な音楽の展望とそびえ立つ壮大なメロディーによって、ブリュンヒルでの胸当てのようにたたき上げられたのだった。父はスリッパを履いて立っていて、赤いシルクのドレッシングガウンから細く小さな毛の生えた脚を突出し、指揮棒で指揮しながら、古いフィリップスのオープンリールが繰り出されている間、素晴らしい唯我論に没我していた。残りの僕らは脅されて座り、キッチンで黙っていた。

 彼は妄想を終わらせることにとりつかれていた。リストについて厳かで半ば宗教的な声色で語り、リストの後半の信仰の旅へのオマージュとして、彼の下級聖職位を処分する考えを軽く見積もりさえしていた。確固とした無神論者としての状況に与えられた馬鹿げた考えだ。一度陪審員として呼ばれたのだが、二週間の空白の後に啓示されたのは、聖書に誓うことを要請されたのを拒否し、彼の言うには、彼が本当に信じていた、リストの伝記に代わりに誓うことを要求した。

 

お父様のことについて語られてきますね。ブレ様はパパンそっくりなんですよね。

CBM その4

ブレ様自伝翻訳です。文章がおかしいのは、読んだらすぐに訳しているからです。ある程度したらちょこちょこ直したいと思います。
原書読んだ方で、明らかな誤訳や解釈間違いがあったら、是非教えてください。

 

 家は小さかった。とても小さかった。僕の父が死ぬ前、僕は義務を果たすようにクリスマスには家を訪れては、いつもそのおもちゃのような大きさにショックを受けるのだった。僕には姉もいた。可愛いブロンディー。ロマンチックなハンガリーの作曲家、フランツ・リストにちなんで名づけられた。父のピーターが僕の姉の名前を付けた。だから有難いことに、僕の名前は、サンドラ、僕の母親に任された。僕が永遠に感謝しているのは、偶然か天の判断かのどちらかによって、まさに僕が生まれたのはホラティオ・ネルソンの誕生日だったことだ。父のヒーローの一人で、彼の「ビッグ・スリー」の主要メンバーだった。それは排他的で個人的なアイドルのクラブで、ウィストン・チャーチルと前述したリストが含まれていた。何年か後、僕は父が巨大なユニオンジャックの海軍旗を買っていたことを覚えている。それは殆ど家と同じくらいの大きさで、僕らの小さな共同住宅の家に、彼らの誕生日に間に合わせの旗竿で壁にかかげられていた。家族に言い伝えられているのは、恐ろしいことに、僕はほんの少しのところでホラティオと名付けられるところだったいうことだ。けれど、父によると、母は俳優のジェレミー・ブレットにちなんで僕を名づけた。他にも言われているのは、ロジャー・ムーアがThe Persuaders(テレビドラマ。邦題はダンディ2華麗な冒険)で演じたブレット・シンクレア卿からだと。恐らくは未来の出来事への潜在意識の先駆けからだろう。

 そして、僕ら四人はレンガとごみから作られたコンクリートでできた、小さな安い段ボール製の家の部屋に押し込められるのだった。ブロンディー、彼女はじめじめした北向きの寝室に、母と父が閉じ込められたのは見えないくらい小さな夫婦の居留地に。そして僕は、家の端っこの日当たりのいい小部屋に据えられた。僕の子供用のシングルベッドと2・3の擦り切れたオモチャを収納するのには十分な広さがあった。オモチャは、羊毛の兵隊はソルジャーと呼ばれ、灰色のネズミはマウスと呼ばれた。僕がよく鼻を埋めていた嫌なふわふわは、ティヴィーだった。両親がTV Times(雑誌の名前)の懸賞で貰ったものだった。美術学校を出ていた母は僕の部屋の天井に雲を描いてくれた。僕はよく横たわってそれを見つめていた。その少し先の部屋で両親の喧嘩が勃発し荒れ狂っている間、外を行き交う車のヒューヒューという音を聞きながら。

 僕は神経質で、不安におびえている子供だった。不眠症の発作を起こす傾向があり、一人で、カーテンの折り目の頂上に作られたグロテスクな顔を見つめながら起きているという、恐ろしい時間を過ごした。一旦太陽が昇ると、僕は他の皆が起きるのを待っていた。僕らの家の道の奥にあるうち捨てられたキノコ栽培所の近くに生えている二本の木を窓から眺めながらだ。一本を僕はマウスと呼び、もう一本はピエロと呼んだ。それらがうねり揺れるのを突っ立って見つめていたものだった。一見、ずっと続く争いの中に閉じ込められているようだった。ブイのように浮かび、強風の流れと渦に打たれていた。

 

ブレ様の子供時代のことが語られてきますね。面白くなりそうです。