死にぞこないの唄

一度死にかけて帰ってきました。

CBM その3

ブレ様自伝翻訳です。やっと第一章に入れた。明らかな誤訳や勘違いがある時は是非教えてください。

 

 僕が生まれたのは、サマー・オブ・ラブ(1967年にアメリカで起こったヒッピー文化現象)の直後、僕の父が38年後に死んだ、まさにその部屋だった。僕の両親の寝室だった。母は画家志望で、地元の、金持ちだが吝嗇の婦人たちに安い値段でドレスを縫うことでお金を得ていた。父はその時は郵便配達員で、後にプールの監視員に、アイスクリーム売りに、窓掃除人に、ついにはタクシードライバーになる。彼らの部屋はリノリウムと妊娠検査と借りた家具と家賃集金人の世界だった。揺れる60年代のカーナビー・ストリートの決まり文句からは大きく離れていた。有名なテクニカラー社の伝説よりは、つまらない灰色の戦後のイギリスに近かった。部屋は低層で閉所恐怖症になりそうなほど狭い公営住宅の一つにあった。知っての通り、そのタイプは郊外のみずぼらしい場所に振りまかれたものだった。国のくすんだベッドタウンで、窮屈な小石打ち込み仕上げの、郊外へと追放された、見落とされ、永遠に動かされ続ける。

  僕たちの家はリンドフィールドという土地のまさに端にあった。外部にひょいとあり、ヘイワーズ・ヒースにすっかり飲み込まれてしまった村だった。ありふれたベッドタウンで、単調で、物憂げな小さな電車が止まるロンドンとブライトンのどこかだった。それは、下流中産階級の日常を描いた熱烈なドラマを超えた、特に何も起きなかったし、これからもないであろう場所だった。両親がその家を選んだのは、子供を森の近くで育てるのはいいだろうと思ったからだ。実際は、落書きされ、うねる鉄柵から何メートルか離れた場所にあった。コンクリートの道路の奥の悪い兆しのように地元の端に鎮座していた。週末になると皆壊れた電化製品や家庭ごみを捨てに来た。錆と白いエナメルの海で、廃棄された家具とばねと劣化したタイヤと乾いたペンキ入れの絡まりだった。勿論、地域の子供にとっては素晴らしくも恐ろしい遊び場で、変わらない魅力と危険の源だった。僕らはよく瓦礫をよじ登り、壊れた原付や動かなくなった自転車の鎖でぶらぶらと遊んだし、壊れた温度計から流れ出た水銀のついた金属容器の中で遊ぶ危険に気付くことはなかった。一度、壊れた小さい漕ぎ船が出てきて、ひと夏の間ずっと、僕らの熱狂的なゲームの中心になった。最終的には壊され、自然の力の残酷なエントロピーに捨てられることになるまで。そこは今自然保護区になっていて、僕は時々、犬を散歩させる人やピクニックで歩いている人たちは、自分達のウェリントンのように進む足の下に錆びていく墓地があることを知っているのだろうかと考える。

 

集中力切れたんでここらへんで。