死にぞこないの唄

一度死にかけて帰ってきました。

CBM その13

ブレ様自伝翻訳行きます! 明らかな誤訳・解釈間違いありましたらよろしくお願いします!

 

 僕らが持っていた物の全ては、自家製か中古だった。母と姉と僕は慈善バザーの常連だった。毎週日曜の午後、地元の会館で、肘鉄を食らわしてくる年金受給者と戦った。飾り物、本、下着でさえ、2・3枚の銅貨でかっさらわれ、家に輸送された。どういうわけか、僕はまだ、母がよく僕に履かせていた使い古しの紫色のナイロンパンツの肌触りを感じることができる。母は家のことを見事なまでに少ない資金で切り盛りしていた。戦後の食糧事情で子供時代を過ごしたから、絶対に何も無駄にしたり捨てたりしなかった。イラクサとキノコを摘み、サラダとスープを作った。死んだ鳥から毛をむしり、兎から皮をはいで、シチューを作って食べた。母はいつも縫物をしていた。口は兵器庫のようにピンが備蓄され、クレオパトラのような化粧をして、エリザベス・テイラーのように髪を決めていた。父が仕事でいない、数えきれない冬の夜の間、暖炉の傍で縮こまって座り、針が布を縫う静かで優しい音を聞きながら、薪がパチパチ、パチパチといい、父の鍵を鍵穴に突っ込んでカチャカチャと回している恐ろしい音を父の気分のクジの結果がどんなものだったかの先触れとして待ちながら。父のわずかな給料では贅沢は許されず、母は安い肉ーーー固く、脂っこい切れ端、くず肉、筋の多いレバー、を、買うことを強いられた。無駄は禁じられていて、僕らは皿の上の全ての一片を食べ終えるまで食卓を離れることは許されなかった。あの恐ろしい晩、ステーキとキドニー・プディングがぽとんと僕らの前に落とされて、僕は食べることができなかった。何時間もずっと座り、白く、円い、フォルマイカのキッチンテーブルで、吐き気を催し、料理に顔を突っ込んで泣いていた。もっと後になって、怒り狂った母がやっと入ってきて、僕の残飯を怒りながら捨てた。この経験は一生涯の肉への嫌悪となって僕に残り、僕を飢えた状態にもした。だから僕とブランディーヌは寝室に食べ物を隠して貯めるようになった。お菓子や僕らが好きな食べ物のの余分な残りがあれば、ポケットに入れ、こっそり寝室に輸送し、お腹が空いた時のために貯蔵された。僕がおぼえているのは、母はよく辛口の捻りのきいた味のマーマイト(有名な野菜ペースト)のタルトを作ってくれたことだ。僕はそれが好きで、よく部屋に密輸し、ベッドの下の古い段ボール箱に貯蔵した。そこはかつて父のヘッドフォンが入っていたのだった。僕はこの蓄えに酷く夢中になり、最初の目的を忘れ始め、長く置き過ぎていた。ある日母が怒って僕の前に立ちはだかった。掃除の最中に見つけた、青かびと白かびの生えた腐ったお菓子でいっぱいの箱を持って。そしてその日一日中、僕は野ざらしの状態にされ、暗い気分で恥じ入り、もう二度と食べ物を無駄にする大罪を犯すことを繰り返さないようにしよう、と決心した。けれど振り返れば、母は素晴らしい女性だった。信じられないほど創造的で現実的でストイックで、マイペースで石のようにしっかりしていた。電気オーブンは別として、僕らは最新設備を持っていなかったから、母は僕らの服を自分で洗って乾かした。甘やかされた21世紀の僕にとっては、信じられないように見えることだ。彼女の節約の十字軍の中、冬の間、母は僕らの湯たんぽの中のぬるい湯を洗濯に使った。セントラル・ヒーティングが家にはなく、居間に小さな暖炉が、キッチンに灯油のストーブがあるだけだった。漆黒の朝(coal black morning)はきびしく、明かりをつけ、火を手入れする儀式は宗教的ステータスがあるようだった。母が司祭長で、僕らは侍者だった。火を起こして燃え続けさせるための新聞紙の屑と、燃えている火を持っては運んだ。じめじめした午後、母は床に屈んでくすぶっている燃えさしに空気を吹き込んでいた。母の手からは木を燃やした煙の匂いがし、額には悩みの線が横切っていた。

 

ここで本の題名の由来が出てきましたね。漆黒の夜じゃなくて、朝ってところにブレ様の皮肉が利いているように思います。後、マーマイトって、外国人にはめちゃまずいらしくて、好きな人はすごく好きらしいんですけど、そのタルトってどんな味なんだろう?